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UPデータ評価
126 2006.5.6
特捜検察の闇

魚住 昭著

文芸春秋 (2003.5)

☆☆☆☆


 ホリエモンが保釈されたそうな。彼が具体的にどう悪かったのか、明らかになったのか。大山鳴動して、という言葉が浮かんできそうな微罪でこのまま事件そのものが消えていきそうである。彼が悪人だというイメージだけを残して。なんとも不可解な状況が現出していると言わざるを得ない。

 あるいはムネオ疑惑。あれもムネオが悪の権化であるかのごとき言説が乱れ飛んだが、なんてことはない、微罪だった。いったい、どうなっているのか。

 これらの事件を扱っているのは特捜検察。特捜検察と言えば、かのロッキード事件を始め、いくつもの疑獄事件を扱ったエリート集団である。その検察が、おかしくなったらどうなるのだろう。

 本書はおかしくなってしまった検察に、二つの事件から光を当てる。まずは、ヤメ検の田中森一。元特捜のエースが、検事を辞めると暴力団やバブル紳士の弁護人に成り代わる。そこに疑問はないのか。しかし、丹念に追っていくと、田中森一だけが異常なわけではないことが分かる。検察のずさんでおかしなあり方が問題の根幹部分に横たわっていることが分かる。だからといって彼らが免責されるわけではないが。

 続いて、オウムの主任弁護人を務めた安田好弘の事件。人権を武器にする悪徳弁護士と騒がれた安田の実情は、あまりに報道とかけ離れている。裁判の過程で次々と崩れる検察の筋書きは、法廷ドラマであったとすれば面白いだろう。しかし、これが現実なのだと思うと背筋を冷たいものが流れる。強引で牽強付会、現実を知らない独りよがりな推論で、被告人は貶められていく。

 司法制度が、危ない。

 そんな現実を丁寧にあぶりだすのは見事である。検察がまともな道に戻るためにこのような外科手術が必要なのだとすればあまりに寂しいことではあるが、早いうちに引き返せば、あるべき姿に戻れるのではなかろうか。司法に興味がある方は、ぜひ読んで欲しい。




UPデータ評価
127 2006.5.8
うぬぼれる脳

ジュリアン・ポール・キーナン著 / ゴードン・ギャラップ・ジュニア著 / ディーン・フォーク著 / 山下 篤子訳

日本放送出版協会 (2006.3)

☆☆☆


 タイトルで奇をてらったのが失敗したとの感がぬぐえない。うぬぼれに関しての本というよりも、うぬぼれを含む自己認識が脳のどこにあるのかについて、類人猿から人間まで幅広いデータに基づいて論じている。

 脳科学についての本を読んだ方なら知っていることも多い。そういった点で、最新の脳科学本だと思うと価値は下がる。むしろ、脳科学と心理学の接点を、どちらの研究成果も用いて説明しているところに価値があると思う。

 まず、チンパンジーやサルが鏡を見てどう反応するか、を追いかける。我々は毎日のように鏡を見て何か作業を行う。人によっては化粧だったり、別の人にとっては髭剃りだったり、はたまた一部の人にとっては科学の実験だったり。しかし、簡単に思える作業であっても、実は鏡に映っているのが自分であることを認識していなければならない。そして、鏡に映るのが友人でもライバルでもなく、自分であるということを知る必要があるのだ。

 物言わぬ動物が自分を認識しているのかどうかを探った後は、人間が対象となる。脳についての面白さは、紹介される事例の面白さと言っても良いくらい興味深く、面白いエピソードが続く。子供の認知の発達や、アスペルガー症候群は自己と他をどう認識するか、フィネアス・ゲージのように脳の一部の機能を失った人々の奇妙な振る舞いなど、人間の不思議さが詰まっている。

 そして、ついに自分という概念が脳のどこにあるのかという本書の究極の答えにたどり着く。意外なことに、劣位の脳とされる、右半球である。他の機能と同じく、自己は右脳だけに局在するものではないのでまだまだ研究は続くだろうが、これまでの定見を覆すような発見の数々はそれだけで面白い。

 ただ、残念なことに訳文が悪いのか、文章で引き込まれることがない。タイトルの付け方にしても、ちょっとセンスがないような気がする。一般人が面白く読むにはなにかが足りない。画竜点睛を欠く、と言ったところだろうか。




UPデータ評価
128 2006.5.9
動物保護運動の虚像

梅崎 義人著

成山堂書店 (2004.4)

☆☆☆☆☆


 鯨やアフリカ像は絶滅しかけているから、保護が必要だ。あるいは、毛皮をとるためだけにオットセイやアザラシが惨殺されている。そんな話を聞いたことがないだろうか。日本の商業捕鯨は禁止され、アフリカ像を保護するためとして象牙の輸入も道が閉ざされた。オットセイやアザラシを獲って生活していた先住民たちは生活の術を失い、途方に暮れている。

 実際はどうなのか。鯨やアフリカ像は減少しているのか。そう考えるのは、実はすでに動物愛護団体の術中に嵌っている。鯨と一言で言っても様々な種類がいる。たとえばシロナガスクジラは数が少なく、商業捕鯨の対象となったら絶滅の危機が訪れるだろう。しかしながら、ミンククジラは膨大な数存在しており、その結果、海洋資源の枯渇に結びつこうとしている。

 アフリカ像も同じ問題がある。アフリカの広い地域に分布するのに、全体が減っているから保護しようというのは理性的な態度ではない。実際に、一部の地域では像が増えすぎて、間引かなければどうにもならない状況になっている。その一方で、政情不安定な国では密漁を管理できず、像が減っている。総体としてみれば減っているから、増えすぎて困っているところでも像を保護するべき、というのが馬鹿馬鹿しいことだと思わないのだろうか。

 我々はついそう思ってしまうのだが、動物愛護団体はそうは思わない。なぜか。彼らが行っているのは善意に基づいた行動ではなく、有色人種を政治的に封じ込めるための策謀だから、である。だからこそ彼らは鯨が増えているという現実を認めない。オットセイの狩りを禁じた結果、200万頭いたオットセイがたちどころに60万頭まで減っても気にしない。世界中の科学者の意向を平然と無視し、国際法を破る。そして自分たちの唱える勝手なモラルを押し付け、恬として恥じない。それが動物保護団体の正体なのだ。

 そんな動物保護団体、たとえば、グリーンピースは動物保護を唱えて多くの資金を得たが、そのカネは動物保護には使われていない。では何に使われているのか、というと組織の拡大とPRだけである。つまり、彼らは圧力団体として存在するのだ。

 動物保護運動は、一見正しいことを言っているように見える。裏の数字のからくりを知らず、計算されつくしたPRは確かに人の心を動かす。その結果、何種もの動物が禁猟・禁漁の対象となった。奇妙なことに、そのために生活を脅かされたのはほとんどすべて有色人種である。オーストラリアでのカンガルー殺(増えすぎたための措置)はもちろん、純粋に趣味として行われるイギリスの狐狩りも彼らは非難しない。非難されるのは、日本人の捕鯨であり、韓国人の犬食いであり、イヌイットのアザラシ狩りであり、キューバのタイマイ輸出であり、アフリカの象牙輸出禁止である。

 こんな現実を、怒りとともに知るべきだ。豊富な実例を挙げながら動物保護運動がいかに虚妄に満ちたものかを説明する本書は、圧倒的な説得力を持つ。圧巻なのは、動物保護団体がなぜこのような行動を行うのか、という背後の説明である。それについては本書を読んで確かめて欲しい。一部筆が走りすぎている気がしなくもないが、論理も証拠も強固で説得力に溢れる。動物保護という虚妄の現実を知るため、一人でも多くの方に読んでもらいたい。読み物としても面白いのがさらに魅力を高めていると思う。




UPデータ評価
129 2006.5.11
脳とセックスの生物学

ローワン・フーパー著 / 調所 あきら訳

新潮社 (2004.2)

☆☆☆☆☆


 まだまだ分からないことがあるからこそ科学に惹きつけられる人は多い。なにせ、セックスが必要になった理由すら、まだはっきりは分かっていないくらいだ。その一方ですでに分かっている面白いこともある。分かったこと、まだ分かっていないこと、どちらにも共通するのは生物は驚きに満ちており、知ることは純粋に楽しいということだ。

 見出しを書き上げただけで読む気をそそられるような、そんな話題が目白押しである。性と生殖ではゾウムシのペニス、男と女のセックス戦争(遺伝レベルで見たら隠微さはなく冷徹な計算と競争が待っている)、進化の項ではアリジゴクやクジラの進化、ヒトの妊娠ではつわりの功罪、胎盤内の♂♀競争、病気・健康・医療ではHIVワクチンの可能性、摂食障害と自己免疫疾患、脳と感情でテレビが与える影響、ギャンブラーの生理学的背景、最終章人類進化では人類の進化や理想のカップル条件について、と本当に面白い。

 しかも、すばらしいことに語り口が平易でウィットに溢れている。専門知識の領域に踏み込みながら深く入り込みすぎない絶妙のバランス感覚。40の話題しかないのが残念で、倍あってもまだ飽きない。そんな読んで楽しい一冊。自然科学が好きな方はぜひ。




UPデータ評価
130 2006.5.11
大本営発表は生きている

保阪 正康著

光文社 (2004.4)

☆☆☆


 ウソばかりで内実が備わらない発表は、いまでも大本営発表といわれたりする。もちろん、敗戦色が濃くなっているにもかかわらず実態にそぐわない戦果報告ばかり発表していたかの大本営発表がその語源(?)である。しかし、大本営発表という単語は知っていても、その詳しい内実は知らない方も多いのではなかろうか。

 そんな大本営発表を時系列で分析したのが本書。真珠湾攻撃で戦果を重ねる時期から無残な敗北を喫し、占領軍を迎え入れるまでの大本営発表の内容の移り変わりを追う。面白いのは、戦果が上がっている間は非常に冷静で正確な発表だったのが、日本軍が押し返され、旗色が悪くなるにしたがって無意味な装飾ばかりが過多となりウソばかりになることだ。

 筆者は戦争の時期を5つに分類し、時期に応じて大本営発表がどう変貌して行ったのかを丁寧に追いかける。戦争指導者たち(特に東條)が言論を封殺し、近視眼的な認識を強いたという事実は過去にあった出来事としてではなく、今後も十分に起こりうることだと思ったほうが良いだろう。いくつか例を挙げると、ゲーム脳や少年犯罪凶悪化、ニート問題、ダイオキシンやBSEなどで全く実態にそぐわないおかしな言説がまかり通っている。複数の国で危険なカルト宗教と名指しされている創価学会が平然と政権中枢に居られるという異常さ(そしてそれが報じられないという問題)など、メディアリテラシーを身につけるべき状況は続いている。大本営発表が過去の終わったこと、とは思わないのが大切なのはこれから先、情報が重みを増すにつれますます重要になるのではなかろうか。







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