2004.4.26
書く気は無かったんだけど。人質事件と自己責任と


 正直、人質事件はほとんどのヒトが食傷気味になるくらいイロイロな報道を見たり聞いたりしてきたと思う。そういったなか、テレビがつかないのもあるが圧倒的に持っている情報が少ない(いや、新聞くらいは読んでたけど)私が何かをいう意味があるのか疑問だったのだが、とこりさんのしゃべりたがる私、4月18日付けの日記を読んでちょこっと書く気になってしまった。もうこのネタに飽きた方には申し訳ないと思いますが。

 まず、自己責任論なるものが噴出していること。最初にスタンスを表明するのであれば、あのような状況でイラク行きを選んだのであれば、自己責任をとる必要がある、と思う。ただ、私がどうしても理解できないのは、自分の責任だからかかった費用を払え、というなんともみみっちい議論に収束してしまう現象である。私は、自己責任とは端的に行ってしまえば自分の取った行動によって(予期が可能であった)なんらかの事象が起こったのであれば、基本的に他人のせいにはしない、ということに尽きると思っている。

 ただ、今回は天災が原因では無いので、事件だというのであれば最も責められるべきは民間人を人質として政治的に利用しようとした犯人グループにある、というのが間違いの無いところだ。では犯人グループを責めて然るべきなのかというと、そうでも無いように思う。イラクは今現在、まだ戦場なのだ。曹操曰く、「兵は詐を厭わず」。兵士は嘘だとか汚い手段だなんてのを気にしないのだ。

 考えてみればアメリカの侵攻だって別に善意から行ってるわけじゃない。人道主義からアメリカの攻撃は正しかったという人もいる。確かにフセインは圧政を敷いた強力な独裁者であったし、彼の治世によって多くの人々が圧殺されていったのも事実である。アメリカが供給した化学兵器でクルド人を虐殺した事件、なんてのも思い浮かぶ。まあ、一緒に「化学兵器みたいに人殺し以外の役にたたなさそうなものを何で独裁者にほいほいあげちゃうのかな?」という疑問も沸いてきちゃったりするけど。でも、それではアフリカでツチ族とフツ族が殺し合いを演じているのを黙って見守ってたのは筋が合わなくなる。国民の1/3を殺したというクメール・ルージュ(ポル・ポト派)だってアメリカ(と、ついでに日本)は援助してた。その結果、虐殺は長引いたわけで。サウジアラビアは人権を抑圧している国家だけど、王家はブッシュ家と仲が良い。そのためか、別段サウジを悪く言ったりはしないみたいなのをみると、民主化を広めるためにやっているわけでもない。

 それどころか、イスラムというのは生活に宗教が密着している宗教で、政教分離が非常に難しい宗教である。だから、トルコはとてつもない苦労をして宗教国家にならないようにしている。勿論、その背後にはNATO時代からの悲願であるヨーロッパ再編への動きに加わりたいというトルコの事情もあるわけだけど。とにかく、シーア派とスンニ派がうんぬんとか言ってるにしても、イラクの人々が民主化を有難がるかも分かっていない。おまけに、作ろうとしているのは「アメリカの影響力を残した」政府、平たく言えば傀儡政権だ。民主主義うんぬん、というのもマヤカシに過ぎないわけで。

 そんな、国益を丸出しにした謀略ばかりが蠢く所において、当のイラク人たちが謀略を巡らせても当然だろう。彼らにとって人質は「自衛隊を撤退に追い込む切り札」としてあったわけだろうから。自衛隊撤退が、アメリカの権威失墜につながればもうけもの、ダメでも身代金いただいて抵抗運動の資金にしてやれ、といったところだろう。そして、抵抗運動は拠点(と資金)を必要とする。だから、スンニ派の親玉に殺さないよう圧力をかけられると人質を殺すことはできない(というわけで、殺されるリスクは低いだろうな、と思っていた)。そう考えると、なんてことはない、戦術としての人質作戦であって人質にされる方はたまったものではないであろうが、かといって犯人を悪いと言って終わりにしても意味が無い。これは抵抗運動の一環なのだから、好悪とか善悪でものを言うのではなく、抵抗運動をどうやって収めれば良いのか、ということをもっと真剣に論じるべきじゃないのかな?その一つの方法論が、抵抗運動の徹底的な弾圧(それはイラク統治に深刻な失敗をもたらすだろうが)であるなら、その方法と効果を論じれば良い。懐柔であれば、どの勢力をどのように懐柔するのが手っ取り早くて不満が少ない方法なのかを論じれば良い。

 で、イラクはそういったところで、分かっていて彼らは乗り込んだ。だからこそ、郡山氏は生きて帰れないかもしれないともらしたり、出発にあたって揉めたりしたわけであろう。だから、捕まったのは彼らの責任でもある。それについて、責任を取るというのは筋が通っている。簡潔にいってしまえば、その行動によって自分の身が滅んでも、犯人以外の他人を恨むな、ということに過ぎないが。ましてや、自分の身の危険と引き換えに自国の政治的決定を覆そうなどと考えるのはルール違反だと感じられてならない。そういった点で、被害者ではなく被害者の家族のとった行動には批判が行われてもむべなるかな、である。しかし、それが匿名の卑怯者による嫌がらせのレベルに収まっているというのがあまりといえば余りにみみっちくて、それは正直まっとうじゃないと思わされる。まあ、嫌がらせしかできないレベルの精神の持ち主は確かに存在するのだろうが。

 では、彼らは日本政府の勧告に従ってイラクに行くべきではなかったのだろうか。ジャーナリストが、「危険だから行かないことにする」となってしまったらそれは何のためのジャーナリズムなのか分からなくなってしまうわけで。そうなったら、我々の手に入るのはプラウダくらいのものになってしまう。プラウダがソ連のプロパガンダ垂れ流し新聞だったのと同じく、現地のことの分からない大本営発表が続くのは、決して好ましいことじゃない。また、NGOは一つの有効な交流の手段であるのは間違いないわけで。そこには確かに怪しい有象無象が大勢いるという間違いの無い事実もまたあるわけであるが、イロイロなルートがイラクとの間にあることは、将来的に決して損になることではない。なので、そういった動きを非難するのもちょっと違うと思われる。

 今後も行く人が居るなら、自分が政治的な駒として酷い目に遭う(武装グループに危害を加えられる)覚悟だけはしておけ、ということしか言えまい。

 国がいろいろやった分のカネを払え、というのはみみっちいが、それは日本人を代表とした意見なら、日本人はみみっちいんだな、と思わざるを得ない。そもそも、邦人保護は政府の正当な職務として存在しているのであって、解放に携わった人々だって仕事でやっているのだ。仕事は増やしてしまったかもしれないが、それ以上でもそれ以下でもなかろう。飛行機代とかなんとか、よくまあそんなセコイことばかり考えるものだ。それで溜飲を下げているのかな?と思うとなんともやりきれない。かといって、別に私は彼らをフォローしようとは思っていない。彼らが、自分達で選んだ道なのだから、それは決して立派なことでも善いことでもない。ただ、やるべきだと思ったからやっていることなのだろう。叩く気も無ければ、褒める気も無い。そんなレベルのことだ。解放されたことについては、心底良かった、と思っているけど。

 取りとめも無いのでこのあたりでやめておく。けど、バッシングも弁護も政治的なにおいがして、ちとイヤンな感じが増してきたのは、間違いない事実だと思う。そしてそれゆえに両極端な意見がネットでもどこでも出回っているようにも思ったり。




   


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