2004.6.4
いい加減、所謂ところの「識者」の発言載せるの止めたら?


 長崎で凄惨な事件が起こった。その舞台が学校であったこと、凶器がカッターナイフであったこと、被害者・加害者双方が子供だったこと、そしてなによりも、彼女らがネット上で自分のサイトを持ち、それが事件に少なからぬ影響を与えていたらしいことなどから大変な注目を集めている。

 なんというか、”ネット社会”のせいとかなんとかそれさえ言っておけばひとまず安心というような安心感というかなんというか、多くの人がネット上の人間関係がどうたらこうたらとのたもうておられるが、私の目には大分的を外した意見のように思われる。そう。「的を得た意見」という言い回しと同じくらい。

 余談であるが、「的を得た」という”的を射ていない”表現に出会うたびに、私の脳裏には射的の的を貰って大喜びをしている得体の知れない子供のイメージが乱舞してしまうので、関係者諸君、私の前で「的を得た」なんて言わないでね(はぁと)

 さて、所謂ところの識者であるが、識者と呼ばれるからにはそれ相応の経験なり知見の蓄積が必要である。平たく言えば、おっさん、おばさんじゃないと識者とは呼ばれづらい。そしてそんなおっさん、おばさんがネットがどうとかこうとか言い散らすことが、果たして正鵠を射ているのか?疑問だけではなんなので、私の目に付いた最も酷いレベルのを紹介しよう。

 大人あざ笑う事件
 少年審判をテーマにした漫画「家裁の人」の原作者、毛利甚八さんの話
 子供を威嚇することを教育だと思い込む大人をあざ笑うような事件だと思う。「犯罪の低年齢化」や「少年犯罪の凶悪化」と、それを抑止するための「厳罰化」という97年の神戸児童連続殺傷事件以来のキャンペーンがいかに無意味なことであったかを思い知らされる気がする。事件の原因探しに夢中になるのは、もうやめにしたらどうだろう。大人でも子供でも、人間関係の中で相手に怒りを抱くことは自然にあるだろう。その怒りを実際の行動にしないために、破局を回避するために心をどうコントロールするか、どういうコミュニケーションを取ればよいのか。まず大人が悩みながら道を探し、子供の世界にそうした文化を浸透させる努力を続けるべきだ。
毎日新聞 6月2日朝刊より引用

 子供は決して悪くないのよ〜というのが見え見えの言辞はかなり胡散臭いのである。さて、問題としたいのはこのようなくだりである。「子供を威嚇することを教育だと思い込む大人をあざ笑うような事件」。はて、「子供を威嚇することを教育だと思い込んでいる」実体を伴った大人は存在するのであろうか?この事件はその後いくつかの記事を読む限りでは容姿に対する些細な(本人にとっては些細どころかきわめて重要かもしれないが)文句(なのか被害妄想なのかはこの際大したことではない)が発端となっている。大人も教育も関係が無い。強いて大人に責任を取らせるのであれば言うのであれば、暴力による安易な憂さ晴らしと、暴力を発露して人を殺めることを平然と考えられるように育てた大人――つまり、主には親だ――にこそ第一の責任がある。その点で、最初の一文からしてもうつまずいてしまっている。

 「犯罪の低年齢化」および「少年犯罪の凶悪化」がもとから「」で括られているのは、恐らくはこの二つのフレーズが事実誤認であり、戦後の未成年者による凶悪事件は漸減しているにも関わらず、この二つのキーワードを使って厳罰化が推し進められたことを非難しているように感じられる。なお、この私の感じ方が間違っていた場合には、なんと言うことは無い、毛利氏は重大な事実誤認の上に論を組み立てているという誤謬を犯しているに過ぎない。
 しかし、本当にそうであろうか?私にはもっと奥深いところに厳罰化の流れは存在したように思われる。それは、すでに破綻をきたしていた少年法の、まさに自壊する姿だったに過ぎないのではなかろうか。少年犯罪の本を読むと、その被害の凄まじさ、残酷さと、加害者側へのあまりといえばあまりなまでの罰の甘さが目立つのである。たとえば、ジャーナリストの日垣隆氏は弟を殺されているが、殺した側は翌日から平然と学校に通っていたそうである。このような加害者側に有利な不平等さを解消するためにこそ、厳罰化は存在した。なお、私は”被害者側に有利な不平等さ”に関しては――もしそのようなものが存在するのであればではあるが――特に文句を言う気は無い。

 そしてさらに、犯罪論をちょっとかじったら分かることであるが、実際には厳罰化と抑止効果の間にはさしたる相関は存在しない。仮にそのような相関が存在するのであれば、殺人に対する罰として死刑の存在する国において殺人を犯す人が現れるはずがないのだ。都市化が進むと一定レベルでの犯罪は必ずや起こるもの、と思ったほうが無難である。

 ここまで述べてきた理由により、この事件は、決して毛利氏が主張するような「大人をあざ笑う事件」ではない。繰り返すが、こんな事件は餓鬼同士の些細な諍いに起因している。大人を嘲笑する意図も無ければ、子供を威嚇してやろうという大人もそこには介在していない。

 では、後段は有効なのであろうか?というと、決してそうでもない。原因探しは、次の同様な事件を防止することには有効ではありうる。一般化にはいくつものサンプルケースがなければならない以上、これは当たり前の話である。さらに、毛利氏は決して結論めいたことを主張しない。なんとも抽象的でなにをしたらいいのかさっぱり見当のつかないことを続けるばかりである。「まず大人が悩みながら道を探し、子供の世界にそうした文化を浸透させる努力を続けるべきだ」といわれても、なにかを言われたような積りにはなるがでは具体的になにをすりゃ良いんだ?と思わざるを得ない。

 で、このような駄文がなぜ新聞に載って多くの人の目に触れるのか。それは、情報が少ない中でなんとしても結論めいたことを書いて欲しいという編集部と読者の共犯的な関係があるのではなかろうか。そしてもうひとつあるのは、そもそもインタビューされる”識者”がこの事件について多くを知るわけでもなく、限られた情報の中から(編集部の意向に従う形ではあろうが)なにやら結論めいたことを書かなければならないために、事実も間違っていれば結論はなにを言っているのか分からないという悲惨なことになってしまうのではなかろうか。

 いっそのこと、識者の発言コーナーなど無くしてしまってはいかがであろうか。それでは寂しいというのであれば、少なくとも厳選して欲しい。また、文章を短くすると結局突っ込みも甘い駄文になりがちなので、どうせやるなら紙面をきっちり割いて検証も行うようにして欲しいな、と思わずに入られなかった。

 なお、この私の文章も同じくらいの駄文であろうが、ここは私の趣味を書き散らすとことであって新聞とは全く存在意義が異なっているため、構わない。(開き直り)




   


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