2005.2.28
続発する犯罪に対していかに対処するべきか


 現在、少年の凶悪犯罪は減少の一途をたどっており、犯罪が増えているのはむしろ中高年であるという。日本刑事政策研究所によれば、受刑者のうちで60歳以上の者が占める割合は 10.3%となった。60歳以上の新受刑者数は10年前の2.3倍になったそうである。

 そんな中高年の闇を象徴するような事件が起こった。岐阜無理心中事件である。続発する中高年による凶悪犯罪は、幼少期に貧しくて十分な教育を受けられなかったのが原因であろうか。中高年の心には問題がある。命の大切さを学ぶため、ボランティアに従事したことなども人事考課に取り入れて犯罪を減らす努力をしていかなければならないのではないか?

 と、ここで問題。これは本当に中高年の心の闇を象徴しているのか、ということは考えてみる必要があると思う。それでもあえて直前の段落のような文章を書いたのは、少年犯罪が起こったときには必ずやこのように書かれているにも拘らず、中高年の犯罪では書かれないことに疑問を感じるからである。

 まず、この事件は中高年を代表するようなものなのだろうか。人間誰しも常に前向きに生きていられるわけじゃないし、時には強いマイナスの感情(例えば”死んでしまえ!”など)を感じることもあるだろう。自慢じゃないが、私などしょっちゅうである。大人気ないから。中高年でも同じであろう。誰もがそうでありながら、なぜ彼だけが暴発したのかということこそ考えなければならない問題である。

 滑稽なことに少年犯罪の場合、すぐにテレビゲームの影響や教育の影響が取り沙汰される。しかし、中高年だとどうして短絡的に職場の人間関係や風俗店、パチンコや競馬などのギャンブルと結び付けられないのであろうか。テレビゲームが非難されているのと同じ割合でこれらが非難されてもおかしくないように思われるのである。(その因果論的な帰結には共に納得が行かないとしても)

 更に、、ボランティアでなんとかの大切さを学ぶ、ということを考えてみる。なんとかの中身は仕事でも良いし、命の大切さでも良い。問題としなければいけないのは、ボランティアを行うことで目的を適切に達成できるのかどうかであるが、実際のところそのような検証が為されているところを見たことが無い。大体、(論理矛盾な言い方だけど)ボランティアを強制しても命の大切さを分かる人はやらなくても分かっている人だし、分からない人は何時まで経っても分からないものなのだ。

 こうやって考えると、少年犯罪と中高年犯罪では犯した罪状が似通っていたとしても少年犯罪の方がよりセンセーショナルに、かつ無根拠に論じられる傾向があるように思う。子供の世界についての無知が原因なのか、子供を馬鹿にしているのか、いずれかではないか?なぜ激減している少年の凶悪犯罪は増加しているように騒ぎ立て、激増する中高年犯罪には大したことを言わないのか。なぜ少年の凶悪犯罪には短絡的な”原因探し”が付きまとうのに、中高年ではそれが無いのか。前にも書いたけど少年犯罪の時には所謂”識者”まで駆り出してネットが悪いだの携帯が悪いだのゲームが悪いだの好き放題言うのに。

 こういったことはもっと真剣に考えないといけないと思う。一番考えなければいけないのは、一番冷静で、事件の真相に迫ることの出来るような報道とはどのようなものか、ということではないか?少年犯罪となれば無責任に騒ぎ立てるのではなく。また、一つの事件を何かに代表させるような悪弊も改められなくてはならない。世代にしても社会にしても、単一の事件で語りきれるほど単純なものではない。

 犯罪は決してゼロになることは無いだろうが、減らしていくためには真摯に向き合わねばならないし、そのためには冷静に起こったことを知ることが大事だ。騒ぎ立て、表層だけを取り上げて、分かった積もりになってもそれは無意味だ。今回など、容疑者と長年付き添った奥方にも分からない、というような事件なのだ。そんな事件を、簡単な容疑者のプロフィールと表層的な事実関係だけで分かった積もりになってしまう、その短絡的な思考こそが危ういと思わずにはいられない。

 なお、この辺りのことは下記のサイトが参考になると思われる。 スタンダード 反社会学講座  反社会学講座 第2回 キレやすいのは誰だ

「いんちき」心理学研究所  中年の心の闇〜大人たちに何が起きているのか〜  中年の心の闇〜万引きをする大人たち〜

後藤和智事務所 −若者報道と社会−

 このうち、最後の後藤和智事務所 −若者報道と社会−は少年犯罪報道についての出鱈目をかなり細かく追いかけておられるので、犯罪報道に興味がある方は必読と言って良いと思います。他の2サイト(3ページ)は社会学の手法で少年犯罪の報道内容を皮肉っていて、読んでいて思わず笑ってしまったあとで考えさせてくれるサイトだと思います。(有名なので知っている方も多いでしょうけど)



2005.3.8

ゲームを嫌いな人々


 神奈川県が残虐なシーンを含むゲームを18禁に指定した(東京新聞記事)のに続いて大阪府が残虐ゲームソフト規制検討、教職員殺傷受け(読売新聞)ということになったそうである。ゲームの規制で少年の凶悪犯罪が減るならなによりである。

 私が薄気味悪いなと思うのは、上記のような意見。ゲームが本当に少年犯罪につながっているのだろうか。もしそうだとしたら今の50代が10代だった頃には今の10倍近い少年による凶悪犯罪が引き起こされていたことが説明できないはずだ。むしろ、数字の推移だけで語るのであればゲームは少年犯罪を減少させる効果があるとしなければならない。

 では、ゲームは犯罪を増加させるのか、それとも減少させるのか。この問いかけは、そもそも不当で不毛なのである。読売新聞記事の見出しを見たら分かる通り、今回のゲーム規制のきっかけとなったのは寝屋川で発生した17歳の少年による教師殺害事件(毎日新聞記事)である。この犯人がゲームを好きだったから、ゲームが危険なのではないかということだ。

 実に短絡的である。実際に数が多く、質も悪いと言われる50代の犯罪でも同じようなことが言われるのだろうか?その可能性を探ってみよう。最近発生した50代の事件であれば、やはり中津川で発生した家族5人殺害事件を取り上げるのがふさわしいだろう。17歳は年上の男性を殺したのに対してこちらは乳幼児を二人、老人を一人殺害しているのであるから更に性質が悪い。

 では、この犯人はどんなヒトなのか。毎日新聞の上記記事より引用すると、犯人は以下の通り。「介護老人保健施設に勤める原平事務長

 皆さんにも危険因子が分かったと思う。まず間違いなく、介護老人保健施設に勤めていたのが原因であるか、事務員をやっていたことが原因のいずれかである。少年がゲームをやっていたらゲームが原因という論で行けば、そうならなければおかしいのである。

 今頃全国の相談所には、「夫が事務員なんですけど私の家は大丈夫でしょうか」とか、「息子が老人医療に携わりたいと言っているのですがどうやって止めたらいいでしょうか」と言った類の相談が殺到しているはずである。もしゲームを悪いという考えに論理があるなら

 知っての通り、そんなことはない。ではなぜゲームばかりが悪役に擬せられるのか。ゲーム脳なる得体の知れない概念まで持ち出してくるのか。ただ単に、自分のゲーム嫌いを社会問題に投影しているだけではないのか。

 ゲームのやりすぎが良くないのは当然のことであるし、社会との接点がないままゲームだけやっていれば常識を身につけられないのも至極当然のことである。しかし、いくらなんでも安易な決め付けが横行しすぎている。ゲームを原因だと考えることが如何に根拠が薄弱なのか、考えてみて悪いことはあるまい。いや。ゲームだけではない。社会問題に対してたった一つの答えをなんの裏づけもないままに提示する姿勢、そして提示された問いかけを素直に信じてしまうことこそが問題である。

 寝屋川事件とテレビゲームの関係(ゲーム業界ニュース)ではゲームの内容と脳の活動から事件とゲームの関係に否定的な観点をだしている。こちらの意見の方が遥かに説得力がある。(この記事についてはぜひ読んでいただきたいと思う)

 見てみると、日本大学文理学部の森教授というのがこの問題で妄言を垂れ流しているようである。”ゲーム脳”なる珍妙な概念を持ち出しただけは飽き足らず、ゲームで自閉症になるなどこれまたとんでもない妄言を書き散らしているようだ(自閉症は先天的な脳障害であり、後天的になることはない)。肩書きを持っているからと言うだけでまっとうな調査すらできないようなヒトの意見など、信じてはいけない。本を読んで、疑うことをしなければ、本を読んでいないのと同じである、とは何時の時代にも通じる金言なのだ。



2005.7.17

少年の犯罪者をどうするべきなのか


 本日の毎日新聞一面の記事は児童自立支援:4分の1が”再非行” 施設機能抜本見直しというものだった。しかし、この記事は誤解を招く。中身を読んでみるとこうだ。

非行の子供などを指導する児童自立支援施設を退所後、再び問題を起こし、家庭裁判所に通告・送致される子供が全体の4分の1に上ることが、同施設である国立武蔵野学院(さいたま市)などの全国調査で分かった。

 ここで言っているのは、児童自立支援施設を退所した後でまた非行を起こして再度捕まったガキが全体の1/4であるということであり、非行少年全員が逮捕されるわけではないことを考えると再非行率はもっとずっと高くなるわけだ。計算を簡単にするために、非行少年のうち家裁に通告・送致される割合がそもそも1/4だった場合には出所したガキは全員また非行を行うということになるのだ。

 これは由々しき事態と言わなければならない。結局のところ、人間はそう簡単に変わらない。性格は環境には依存せず、遺伝で決まることを考えるとこのような更正施設の性格は見直さなければならないことは火をみるよりも明らかである。更正施設ではなく、社会全体の安全を高めるために社会から排除することを目的とした隔離施設であり、外に出ることに備えての矯正施設にしなければならない。

 当然のことながら、極めて稀な事例として不良から立ち直って真人間になる、という人もいる。ヤンキー先生とかなんとか騒がれた人物もその一員であろうが、そもそも彼らが話題になるのは真人間になる非行少年がほとんど全くいないので話題性があるというたったそれだけの理由による。そもそも、大抵のまともな教師はヤンキーではなかったわけで、そういう圧倒的多数の人々が取り上げられないのは彼らがまともなのは当たり前と思われているからに過ぎない。

 そこで我々は考えるべきだ。極めて稀に真人間になる者がいるというそれだけの理由で大多数が再度非行に走るような人々を安易に社会に出して良いのだろうか?そもそも彼らが自立支援組織に入れられた理由は彼ら自身が悪行を犯してきたことに起因している。そういう人々は再度チャンスを与えられてもそんなチャンスを活かすことができないのだ。性格が遺伝的に決まっている以上、避けられない結果でもある。

 少年犯罪自体は昔と比べるとすさまじく減少しているのは議論の余地がないのであるが、全体としての少年犯罪の減少は少年犯罪被害者にとっては何の慰めにもならない。犯罪者を安易に社会に出すことで他の人が新たに迷惑をこうむる可能性があるのだから、家裁送致の割合から再非行率を割り出すのではなくもっと徹底した調査を行って、その結果を元に社会政策をどのようにするべきかという議論に持っていって欲しい。センセーショナルに煽るばかりが報道では、ない。

 なお、私は少年犯罪の被害者で入院したこともあるが警察は恐らく被害届けを受け取っただけで調査はしていない。あの悔しさは忘れないし、加害者がのうのうと過ごして行くことには納得が行かない。そして、人権派を名乗る人々が加害者を必死に擁護するその姿は、私には滑稽に見えるのだ。一番の被害者が、非行少年に害を加えられた人物であるのは普遍の事実であるのだから。私の案は、以前にも書いたがスリーストライク法の導入である。被害者を増やさないためにはそれしかないし、極めて稀な更正した人を根拠に非行少年全体を更正できるかのように語るのは明白な間違いだ。




   


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