2004.3.19
自分を個性的と称する没個性的な人々


 前々から不愉快に思っていたのが個性を巡る言説であって、それは私が自らを個性的と思いこんでいる人々に対する疑惑をより感情的に記しているだけに過ぎないというのは間違いないのであろうが、これは私が大学に入った頃から顕在化しているように思う。この辺りの流れについては書き始めると非常に長くなるであろうしいずれ書くことであろうと思われるので今は措いておくことにする。まあそれは兎も角、例えば今年度私の勤める会社に入ってきた新人は自分達を「変わった人が多い」あるいは「個性的だ」と評していたりする。で、彼らを見ていると図ったかのように一様に髪を茶色に染め(後に上司からどやされて全員が即座に黒く染め直す)るといった様な、明白な没個性化を行い、話す内容は女の話と車の話というこれまた若い男性が自然に興味を持つことばかりである。そういうの、没個性的というのじゃないのかと思わずにはいられない。

 (この辺り、我ながら無意味な分析屋であると思うのであるが)ではなぜ故に彼らは自分達が個性的だと思い込もうとしているのかということに考えが及んでしまうわけである。困ったことに、私がそれを分析するには決定的に欠けているものがあって、それは間違いなく私と彼らがほぼ同年代でありながら私の側が一方的に彼らとの共通となる文化的素養を受けていないことに原因がある。(これは後述するとおり決して褒められたことではない)

 で、結論から言ってしまえば肯定するための自分探しとしての他者との差異化こそが根源にあるのではないかというのが私の推論である。社会に出るほどの年になれば、自分が特別な存在でも特異な能力を持っているわけでもないことが明白となってくる。他者に誇れる何かがあるわけでもない。しかし、自分には何かがある。その幻想の最後の拠り所こそが個性なのではないかな、と思うのである。であるからには、個性の有無は他者との比較の上に成り立っているわけではなくて肥大化した自意識の、その内側にのみ存在しうるものではなかろうか。もし仮にそうであるならば、彼らが自分達を個性的だと評するのは当然の帰結であると言える。それしか無いのだから。

 私が多分に皮肉交じりにそう考えるのは、前述のとおり好んで没個性化を図る人々がその一方で自分の行動の対極に位置しているとしか思えない行動を、自らの意思で選択していることに起因しているわけであり、そこにあるのは養老猛司が指摘する「本当に個性的な人は誰にも理解されないから精神病院にでも押し込められるのがオチだ」という、そこまで過激なものではない。ただ単に、個性個性というほどの個性があるのかよ、という皮肉な見方に過ぎないと言えなくも無い。

 なんとかいうグループが「ナンバーワンじゃなくてもいい、あんたはオンリーワンじゃ」とかなんとかいう歌を歌ってヒットしたとか何とか聞くが、これなどは実はこの文脈の中に見事に位置づけることができるようにも思われる。そこにあるのは「お前(その裏を構成するものとしての俺)は(俺)なんだからそれでいいじゃないか」という無秩序な自己肯定を、私は多少の薄気味悪さをもって聞く。その主題自体は多くの指摘があるようにフォークソング時代のそれと全く同一であるというのはそれはそうなのであろうが、そこまで無自覚に自己肯定に走ることができる、というのはどのような心理によるものなのか、私にはさっぱり分からない。

 仮に文化論、社会論じみたことを書くのであれば、フォークソングにおける自己肯定にはやはり新左翼運動の決定的敗北(そのピークでもあり終結でもあるのは当然のことながら連合赤軍事件じであると思われる)による、どうにも行きようの無い敗北感である、という言説も成り立ちうるのかもしれない。その時代を生きていない私には勿論それに意味を付与することはできないわけであるが。で、考えても仕方が無いからフォークはそれで片付くとして、今いる無自覚な「自称個性的人間」はどこにその根源があるのかというと、それが正直なところ同時代に生きていながらさっぱり分からない、というところに問題――主に私自身の――があるように思われてならない。

 それを時代の閉塞感といってしまって片付けるのは容易なことであろうが、私はそうではないと思う。私自身の学生時代/社会人時代を通しての同世代の人々との付き合いからの感想に過ぎないのではあるが、多くの同世代の人々がそれほどまでに閉塞感を自覚していると、どう考えても思えないことに拠っている。私には時代の閉塞感というよりも刹那主義の横溢でしかないと思われてならないのだ。しかし、刹那主義にしてももっと多様な愉しみ方があるんじゃないかな?というのが私のもつ疑問であり、なぜ判で押したように一様な愉しみ方しかしていないのか、ということに帰結する。個性云々はその一様さとの対比の中で顕在化するが故に違和感を感じざるを得ないのだ。

 そして、この様に書く私自身が個性的なのかというと、それは決してそうではない。私もまた一つのステレオタイプに過ぎない「流行をバカにするちょっと(というか、かなり)周りから浮いた人」という、それこそどこにでもいる者に過ぎないからだ。そしてそれ故にこそ多くの人と同じ文化的素養を受けていないことを決して褒められたことではないと断じる理由である。要するに、単に数は多くないが、その少ない数では極めて典型的なタイプであるわけで、稀少にはそれ自体価値があると思えるなら兎も角そのようなものは幻想に過ぎないと思い込んでいる私にとってはまさに、私がバカにしている流行を追う人々と表裏を為す存在に過ぎない(それについて無自覚ではない)。

 それが自分自身を高く評価している、というのであれば、言い直さなければなるまい。これはダメ人間のありふれたあり方である、と。




   


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