2004.9.23
矛盾とパラドックスは別物か


 KASAさんのkasa's legitimate square、9月14日付の日記に、矛盾とパラドックスについての話が載っている。その論を下記に示す。(尚、著者のKASAさんはご自身の著作権についてこのような意見を表明されています。従って、引用は不当ではないと考えます。また、このKASAさんの考えについては私も賛同します。)

「矛盾」とは知っての通り、「辻褄が合わない事・物事の道理が一貫しない事」の意味である。広義に解釈すれば、「矛盾」とは「間違っている事」となる。

一方、「パラドックス」の和訳は「矛盾」ではない。「逆説」である。これは「通常の把握に反する形で,事の真相を表そうとする言説」という意味だ。簡単に言うと、「パラドックス」とは「一見、間違ってるっぽいけれども、実は合っている事」だ。

つまり、「パラドックス」というのは「真実の一種」で、「間違っている事」である「矛盾」とは殆ど正反対の意味となる。

以上より今日の結論。

「矛盾」と「パラドックス」は同義ではない。それどころか殆ど正反対の意味である。

 この一文を読んだ後、違和感が付きまとってならなかった。そう思ったら、調査あるのみである。まず、矛盾という言葉から、追いかけて見よう。矛盾と言う言葉は、韓非子・上に見られる言葉である。商人が矛と楯を売りながら言うことには、「こっちの矛はどんな楯でも打ち破れる。こっちの楯はどんな矛でも突き破れる。」それを聞いたお客さん。「じゃあ、その矛でその楯を突いたらどうなるんだい?」という話である。ここだけ見ると、KASAさんの論の、矛盾に関する段落は正しいように思われる。

 しかし、である。韓非は喩え話の妙手であった。それが韓非子を面白くしている所以でもあり、誤解される由来でもあるように思われる。そこで、元の韓非子が書いた話しを追いかけて見よう。概略を以下に示す。(詳細は、数学言語研究会の島田さんが管理されておられる数学用語の漢字内の、付録3を参照して欲しい。タイトルは退屈極まりない(失礼!^^;)が、面白いので是非どうぞ)

 韓非子は、名うての合理主義者である。そんな彼はちょっとした疑問を持っていた。古代の聖王である堯と舜について、儒者の主張する内容が正しいとは思えないのである。そこで韓非子はこんなストーリーを考えた。堯が正しいなら、舜はダメである。舜が正しいなら、堯はダメである。堯、舜の双方が正しいことは起こり得ない。それをもっと単純化した話が、矛盾の話しなのだ。この話を更に単純化すると、以下の通りとなる。

1.この矛はどんな楯でも貫き通せる
2.この楯はどんな矛も防ぐことができる
3.1.が正しければ2.は間違いであり、2.が正しければ1.は間違いである

 次に、パラドックスである。これは特定の故事に基づくものではないので、適当な例を一つ挙げて見よう。正直な話をするとオルバースのパラドックスなんかが私の趣味なのであるが、有名どころでもあるツェノンのパラドックスをご紹介したい。

 ツェノンのパラドックスとはこんな話だ。亀とアキレスを競争させる。アキレスは足が速く、10mを1秒で走ってしまうほどだ。ところが亀のヤツときたら鈍間で1m進むのに1秒もかかるほどだ。いや、亀にしたら随分早いような気もするけど。そんな亀には、ハンデをあげることにする。アキレスよりも10m前に置いてあげるのだ。こんな状況で各馬一斉にスタートです!!

 アキレスはまず10m走る。その間に、亀は1m進む。次にアキレスは亀が進んだ1m分走る。亀は0.1m進んでいる。次にアキレスは0.1m進む、、、とやっていくと、無限の回数この作業を行っても決してアキレスは亀に追い付けない。なのに、現実世界ではアキレスは亀を抜ける。ここにおかしな事態が発生する。この話を要約すると、下記の如くなる。

1.無限の時間がかかってもアキレスは亀を追い抜けない
2.アキレスは亀を追い抜く
3.1.が正しければ2.は間違いであり、2.が正しければ1.は間違いである

 ツェノンが斯くの如きパラドックスを持ち出したのは、彼は無限の概念を認めなかったため、無限を持ち出す者を論破するためだったと言う。構図としては、矛盾と全く等しい。ツェノンの過ちは、この操作を無限に繰り返すと結果が10/9に収束してしまうということにある。しかし、無限の概念や収束などといった数学テクニックが無かった頃のツェノンに対して無知と罵るのは正しくない。ただ、彼は正の数を無限に足したら無限になる、ということを前提にしてしまっただけだ。

 つぶさに見ると、矛盾とパラドックスに明確な差異は見られないように思う。従って、私は矛盾もパラドックスも、共に論の過ちを見つけ出すための一つの手段である、と思うのである。ただし、現代の論理学は西洋からやってきた概念を用いているので、特に科学の分野でパラドックスという単語が使われる傾向があるように思われる。矛盾も背理法を用いて論理あるいは前提の破綻を示そうとしていることを見ると、双方とも同じだとおもわれるのに何故ゆえに矛盾にはマイナスイメージがあるのか、そのあたりは私もとても気になるのである。 2004.9.28

矛盾とパラドックス、その差


 前回矛盾とパラドックスには成り立ち上を見ると違いがなさそうであると述べたが、しかしこの二つは同一の概念ではないと思われる。パラドックスという言葉を辞書で調べてみると、矛盾という言葉を使って説明はされているものの、矛盾そのものとは標記されていない。従って、どこかに差があるはずである。

 なお、ウィキペディアでは、パラドックスを「一見すると筋が通ってるように思えるにもかかわらず、明らかに矛盾していたり、誤った結論を導いたりするような、言説や思考実験などのこと」、矛盾を「矛盾(むじゅん)とは、論理の辻褄が合わないこと。あることを肯定し、同時に否定するなど」と説明している。パラドックスを説明するのに”明らかな矛盾”という言葉が使われている辺りに、この二つの言葉に近い意味があることを窺わせる。

 では、適当に思いつく差を考えてみるとどうなるか、というと、パラドックスにはマイナスイメージが無く、矛盾にはマイナスイメージがあるように感じられる。

 そこで、矛盾の話をもう一度追いかけてみる。矛盾の話は、韓非子に記述されている物語で、商人が矛と矛を売っていて、気前のいい口上で両方を誉めるがその論理の破綻を指摘されてしまう、という話である。ここで大事なのは、このストーリーには二人の人物が登場している、ということにあるように思えてくる。我々の目には、話した内容を否定されて落ち込む商人が思い浮かんでしまうのだ。ところが、一方のパラドックスにはそのようなマイナスイメージを背負い込む人物は存在しない。パラドックスは、それなりに説得力をもつ仮定と論理の組合せが現実に合致しない以上、仮定あるいは論理のどちらかに間違いがあるのだ、と指摘する第三者しか居ない。矛盾の話に比すのであれば、商人でも突っ込みを入れた人物でもない、韓非子の視点こそがパラドックスの視点であると言えよう。

 だとすると、矛盾とパラドックスにはそれぞれ仮定か論理の破綻を突き詰めようとする厳格な姿勢がありながらその言葉から想起されるイメージが随分と異なるのは、矛盾のストーリーの構図にあるのではなかろうか。矛盾の語は、論理の破綻した売り口上を発した商人の、その転落した結果を見せ付けてしまう。落ち込んだ商人の姿を思い浮かべてしまってはマイナスイメージを取り返すことができないのだろう。

 もちろん、イメージ上の差はあれども、どちらも論理の道具とすることは可能であるのは間違いない。




   


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